昭和五十一年八月十九日
御理解第九十二節
神は一体じゃよって此方の広前に参ったからと言うて別に違う所は所はない。彼所では受けられたけれど此所ではおかげが受けられぬと言うのは守々の力によって神の比礼が違うのぞ。神の守をして居れば諸事に身を慎み朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるととは氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。
信心は何処までもより本当のことを求めて行くという姿勢を持って居らねばなりません。
これだけのおかげを頂いたから、又はこれほどの事が解ったから、それで良いと言うことではありません。より本当の事が教えられたらそのより本当の教えをいよいよ身につけて行く、より本当のおかげを頂くために、限りないそうした精進が必要であります。同時に○まさる修行、云うなら諸事に身を慎みとありますね。これは勿論お道の教師に対して、教祖様が教えて居られるみ教えです。だから問題は力を頂かなければ人は助からんぞと、それはいつも精進して居らねばなりません。と言うことを教えて居られますが確かにおかげの受けやすい教会、とうけ難い教会がある。けれども私が思うのに本当におかげが受け易い教会は信心が進まない。守々の力に依っておかげを受けて参りますからね。しんじんを例えば今申します様にな、限りない精進、より本当なことが解らせた頂きそのより本当な事を限りなく求めて行くところに限りないおかげが頂けるんだ、と言うところが信心は楽しい。信心が解れば信心が身に付けばおかげの世界が広がっていく、と言うところに信心の楽しみ歓びを感じさせて貰わなければならんのだけれども、信心は進めなくっても信心は身についていかなくっても守々の力によってと仰る。おかげが頂けるからどうしてもそこに腰掛ける。お取り次ぎを頂けばおかげを頂く。お取り次ぎを頂いても、お願いをしてもおかげが受けられる。神は一体じゃによって何処へ参っても同じという、仰る神様を拝んどるのですから、おかげの受けられない筈はないけれども守々の力でおかげが違うてくる。そこで人があんまり助からん教会でおかげを求めず信心を求める事になる。これはまだ信心が足らんからだと云ったような、いきかたになるところから、信心が身に付いてくる。
今日私はあの鼓のお知らせを頂いたんだけど、その鼓というのが本当なものではなくて、何かこう木のようなもので出来ているのですよね。ですから私はそれを頂きながら思ったですけど鼓の稽古をするときには本当の鼓でなくても良いんだと。まあ私はあれは何というか知らん。打ち込みなら打ち込みと、鼓の稽古というのはこの人差し指と、べにさしを指が割れる位なるそうですね。勢いかね、それを練習して居るとですね。だからどんなに鼓が千鳥掛けに締め上げられて居ってもです、打ち込みの稽古をしとらん者が打ったって本当の良いカチッ、カチッと言う良い音色はでらんです。
だから稽古の時にはです、本当の鼓ではなくても良いのだと言う事になるますね。此の手の要領と言う、どういう要領しか知りませんけれども、とにかく打ち込む稽古ですから本当の鼓じゃなくても、鼓のような形のものを作ってそれを一生懸命こうやって打ち込む稽古をさしていただいて、指の力というか、又はその辺の要領というものを体得する。
いつも頂く御理解の中に鼓の紐が掛かって居る。あれを千鳥掛けという。だが願っても願っても願いどうりにならない。千鳥掛け、左に掛かったら左、だが願っても願っても成就しないとき、そういうときにです。云うならいよいよその締め上げた上に締め上げて良い音色が出ますように、良い音色が出るようにその鼓が締め上げられておる様に、なら全然稽古をしていない者がいわゆるカンカンするように締め上げて、良い音色が出るはずがありません。だからその打ち込み稽古を本気で出来て、そして千鳥掛けであり締め上げられて在り、そして打つときにあの何とも言い様のない、あんなものからどうしてあんな音色がでるのだろうか、と言うような音が出るようになる。私はその事をお知らせ頂くようになってから、今日のこの九十二節を頂いて、成る程、おかげの受けられない、右と願えば左、左と願えば右と言った様な所を通っておるとき本当の、いわゆる、打ち込む姿勢と云ったようなものが出来るんだと言うことです。だからあんまりそれも合楽の場合なんか奇跡的なおかげと、おかげを受けた人達の話を載せる。おかげを受けた人達の記事を載せるのですけど、これは毎月、ひと月の記事を取るのに不自由はないだろうと云う。二、三日前から編集の人達が掛かっております。それで私は記事がないのではなかろうか、そんならこういう記事も書かなければならない、こんな記事はどうだと私が申しましたら、いえそうしよるともう一枚紙面を取らなければならない。あれだけでもう記事は充分にあります、というわけです。と言うようにおかげを受けた話ならば合楽では沢山在るというわけです。けれどもそれでは網さんのこの暑中見舞いではありませんが、頂けば頂くほど湧き出すおかげの泉、わき出る胸にこみ上げ涙こぼれつ、おかげを頂けば誰だってそれこそ涙がこぼれる。胸一杯になって、本当に神様は素晴らしいと網さんならずと誰でも云うでしょう。そういう例えばおかげ、今丁度森町の方から竹田という病院の先生が、女医のもう六十才位なられるだろう。六十何才が先日私が居ないときに、上野先生のお取り次ぎをいただいて、本当に永年医者をさせて頂いて、神様のかの字も云うた事もなかった私が、何か知らん心に求め続けておったものが与えられた喜びでいっぱいです、と言うて感動されたと言う事です。
それこそ一番始めにお参りさせていただいたときに頂かれた御理解が、天地の働き、自然の働きにこちらが合流していくという生き方、そこに天地との交流が始まり、そこからおかげの頂けれる信心ぞと、拝むからおかげを頂くんじゃない、参ったからおかげを頂くんじゃない、その為には自然の成り行きそのものを大事にしていかなければ行けないと云う意味の大変難しいお書き下げを頂いた。その時お医者さんと言われませんから、何処の田舎のばばさんじゃろうかと言う様なかんじです。けど段々お話を聞いて、二度目にお参りした時に自分が医者であることを云われて、そして赤裸々な、本当に赤裸々な悩みをお届けになりました。一生懸命にお参りになる、往復五時間かかるそうです。自分で運転して来なさる。それで本当に今のうちにその間におかげをいただいて、お参りがしたいけれども、あちらの方は冬になると道が凍ってしまって危なくて参られませんから、夏のうちにしっかりお参りさせて頂きたいと言うて参ってみえる。そして熱心に御理解を頂かれる。先日は上野先生が丁度大祭の前の日でしたかここで皆さんご用を頂いて居られるのにもう感動して、私も何かさせて下さいと云われる。それから部屋、部屋を見て回られてからいよいよ信心の力というか偉大な働き、神様の働きと言うものを部屋を見られるたんびんに感動しておられた。特に客殿に入られて金光様の額と、幅がかかっとりますが、あれを見て体を震わせて感動されたと、いうなら有り難い字にふれられてね、それだけ感動が強いわけです。と言う様にです、例えばそのおかげを受けるわけです。なら網さんの場合でもおかげを頂くからこそ、頂けば頂くほどおかげの泉がわき出る、胸にこみ上げ涙こぼれつ、と言うような実感を言えれるのですけど、私はこの網さんの信心が素晴らしい、受け方が素晴らしいと思うのですけど、なら神様がそう言うまた売れたまた売れたというおかげを下さるわけがない。それこそ千鳥掛けじゃないけれども、右と願えば左、左と願えば右と云った事が必ず来るです。だからそう云う時にこういう文句が書けれるようになった時が本なもんです。思えば思う程、神様が解れば解るほど、成る程苦しゅうございますけど、有り難くなってそれこそ胸に迫って涙こぼれつ、と言うようになった時が本当の信心がわかった時です。
私はこの葉書を見てから驚いてしまった事は、皆さんにこうやって見て貰ったですね。暑中お見舞いと誰が見たって読んでしまいますけど、実を云うとこれには舞という字が欠けとる、暑中お見申しあげますとしてある、申し上げ奉ると書いてある。暑中お見舞い申しあげますが、本当なのに暑中お見申し上げますとしてある。云うならば舞が欠けて居ると言う事です。舞と言う事は例えば私がいつも皆さんに話を聞いて貰う、そのお話に乗って云うならばリズムに乗って、舞を舞う、踊りを踊ると云う。桂先生の云われる、桂松平に次いで踊る者は徳を授けると云われとられるです。
なら此処では大坪総一郎について踊る者でないといけません。と言う事はどう言う事かというと、お役に立ちたいという一念なのです。ただこれはおかげを頂いての有り難いでしょうか。そしておかげを頂いたならばそのおかげをもって、神様に喜んで頂ける私にならせて頂きたいという一念を燃やす様にならなければ信心が解ったとはいえません。昨日の月次祭の後に皆さんに聞いて頂いた様に泉尾教会のそれこそ日本一の先生が自分ほど鈍な者はない、自分程鈍な者はまたとおらんのだけれどもお役に立ちたいと云う一念だけは誰にも負けない。自分は鈍な者である、自分はこんな汚い者である事がわかって、只それが解るだけでは云うなら不浄を作って行く様なもので、おかげの頂けないものを自分がもっておるんだ、詫びるというだけではいけない。詫びなければならないものを自分が持っている、自分が解れば解るほど、自分の心の汚さが解ってくる。だから相済みませんとお詫びしただけではおかげにならん、それでもお役に立ちたい一念を燃やすから神様はけがれているものを綺麗にして、ところでいうならおかばいを下さる。それがまた有り難い。私のような者で相済みませんでおかげ頂かんけれども、私の様な者でもお役に立ちたい、神様のお役に立ちたいの一念を燃やす事に依って、神様は見直し、聞き直し悪いところは袖、袂に入れて只よいよいと云う所だけをとってくださっておかげを下さる、お徳を下さると言う事になるのです。
だから親先生が奏で、下さるところのみ教えのリズムに乗って、私もお役に立ちたい、その舞が舞いたいと言う願いを持たせて頂ける、切実に持たせて頂ける様な信心になった時に信心が出来たと言うことになる。だから云うならば奇跡的なおかげの連続である。
おかげおかげと云っておかげを頂いただけでは信心は進まん。だからむしろお願いしても右と願って左、左と願って右になる様に千鳥掛けになっていく。なっていけばなって行くほど神愛が解る。云うならばその中を締め上げていく、云うならばその鼓がよい音色が出る状態になる。所がどんなに締め上げられとってもですね、よい音色が出る状態になっておってもです、素人がその鼓を持っても、よい音色が出るわけはないと言う事。そこでねこれは鼓じゃなくても他の鼓の形をした木でも良いと言うこと。ね、云うならその時に一生懸命、おかげの受けられないときに、一生懸命打ち込みの稽古をしとかにゃいけんと言うこと、打ち込みの練習をさせて頂いて、何とかしてお役に立ちたい、お役に立ちたいの一念が一生懸命の信心になる。それが真の信心。
何処へ参ったからと言うて、いうなら神様は同じ。只守々の力によって、おかげが違う。だからおかげを頂きたいだけならば力のある先生の所でお参りすればおかげが受けられる。そう言うお参りは、私は大したおかげではないと言うことです。むしろ願うても、願うてもおかげにならない様な状態の時にこそ、あんまり御比礼の立たん教会で本気で打ち込むならばです、それこそ打ち込む稽古が出来ておる。それに云うならおかげが右左になって来る。千鳥掛けそして締め上げられる、それと日頃稽古をさせて頂いとる打ち込み、それこそ手が割れるような打ち込みの激しい稽古をさせて頂いて、その鼓を握ったとき、初めてカンカン云う様なね、かんかんと云う様な素晴らしい音色が出てくる、ね。
そう言う意味で私は合楽の場合はおかげも適当、信心も適当に教導されてるように思います。けれども如何に教導が素晴らしい、御理解が素晴らしいと言うてもそれを打ち込みの材料にしなかったら、現在ふんまえておる難儀をです、通して信心を分かろうとする精進がないなら、如何に合楽であっても本当のおかげは受けられんと言うことになるでしょう。信心が分かって有り難い、おかげを頂いて涙こぼれるじゃいかん。信心が分かって涙こぼれる位の信心を身に付けさして貰わねばならん。
それに昨日今日頂いて居る自分がいよいよ分かる所から、本当に自分の様に汚い者はおらん、神様相済みませんと詫びるだけでは、それは謙虚な姿勢ではあろうけれども、おかげを頂く、云うならば、受けものにはならない。私のようなものがと分かると同時に、勿論お詫びをさせて頂くけれども、それでもお役に立ちたい。この葉書で云うなら舞が欠けておるのではない。親先生の云われるリズムに乗って舞が舞いたい、お役に立ちたいという一念を燃やしていく。そして本気で本当の信心に打ち込む、本気で教えに打ち込む、教えを行ずる事に打ち込む、そこから生まれて来ることが体験、その体験が有り難い。どんなに千鳥掛けになり、どんなに右と願った事が左、左となっても右となってもいよいよ信心の打ち込み、打ち込みの信心になって行く時です。いよいよその鼓が綺麗に千鳥掛けに○○から中が締め上げられて中が握られた時に、云うなら素晴らしい音色が出るようなおかげにもなってくる。要は信心が分かりより良い信心をより良いおかげを頂きたいと思うならば、限りない、より本当の事が分からせて頂いたならばより本当な信心に進んでいく姿勢がない限りおかげの進展はないという事。
もうこれだけ分かったからその程度親先生が云われる事はいつもこんな事だからと高をくうてそれから先、進もうとしない様な事では、おかげは受けられない。今日は私はおかげの受けられない状態の時、またはお徳の高い先生の所でお願いすればどんどんおかげを頂くという様な所ではかえって信心が頂きにくい。おかげに腰掛ける、合楽ではそう言う。言うなればキザシというかね。もう本当におかげの泉、じゃない合楽だよりに書かして貰う奇跡的なおかげという材料には不自由しないくらいな奇跡的なおかげも横に見せて頂きながら、そして信心を分からせてもらう、進めさして貰うところのみ教えも併せて頂いておるのが現在の合楽だと思います。それにおかげだけに腰掛けておるような事ではどんな素晴らしいおかげを頂いてもです、その教えをより本当なことを分からせて貰い、より本当の事に行じさせて貰うと言う姿勢を作って初めて、おかげと言うて、ならおかげの受けられない教会で打ち込んでも打ち込んでも木の鼓を打ち込んでおる様に全然打ち込みよるばって音はでらんと云う様なことではいけません。
これは私は思うです。本当にあんまり御比礼の立たんところで本当の信心の稽古をしようと云う様な事になってくると本当にお徳を受けやすい、力を受けやすいと思う。おかげの受けやすい教会では信心は分かりにくいと云われるが、確かにそうだとおもう。そう言う意味で合楽の場合はおかげも適当、信心も適当と言った様な感じがしやしませんか。
その適当に頂いとるけれども、やっぱりおかげの方に重きを置いて、信心を進めると云う様なおろそかであったら、そう言うおかげの頂ける場を頂いとっても本当のおかげにならないと云う事、それは何故かというと此処へ参ったからと言うて、神様は同じだと言う事。只守々の力によっておかげが違うという、その辺の所はあんまり大した事ではないという。私共が拝ましていただいとる神様は、金光大神のお取り次ぎに依って天地金乃神様と拝まして貰うから同じものなのだ。
だから私はそう言う理解をさして貰うて、いわゆる打ち込むことの大事さと言う事を、此処の御理解では説いてはないですけれども、そう頂かなければなりません。私はいつも申します様に教祖の御教えというのはいつでもおかげの頂ける、お徳の頂ける頂き方をせねば駄目だと皆さんに申しております。教えの全てはおかげの頂ける、お徳の頂ける内容を持って居ると言う事です。どんなに素晴らしい美味しい食べ物の材料がありましても味付け加減ではこれが一つも美味しくない様になってしまう。まあ合楽で素晴らしい美味しいものの頂ける材料をどんなに揃えておっても、皆さんが味付けの稽古をしなかったら折角の美味しいものでも、いはば美味しいものではない。まずいものになっては相済まぬ事だしめいめいとてもやはりそれでは、本当の信心の味わいを味合う事はできません。
どうぞ